FAZER LOGIN第9話 竜族の食卓は命懸け
「最初に言っておくけれど、今夜の晩餐会では三度までなら失敗しても、私がどうにか取り繕えるわ」
皇女宮の食堂で向かい合うなり、リシアは慰めるつもりらしい言葉を口にした。朝日を受けて輝く銀髪も、背筋の伸びた姿勢も相変わらず美しかったが、その説明だけはまったく安心材料になっていない。
「四度目はどうなるんだ」
「失敗の内容にもよるけれど、決闘になるか、外交問題になるか、その場で毒を飲むことになるわね」
「食事へ招待されたはずなのに、どうして命の心配をしなくちゃならないんだ。竜族は毎晩、晩飯を食べるたびに戦争を始めているのか?」
「あなたたち人間の貴族だって、食卓では笑顔を浮かべながら政敵の失言を待っているでしょう。竜族は、それを少しだけ分かりやすくしただけよ」
少しだけ、という言葉の意味について追及したかったが、リシアの隣に立つ侍女長エヴァが、同情の余地を一切感じさせない顔で三枚の皿を並べたため、俺は口を閉じた。
皿の上にはそれぞれ、焼けた石のような黒い肉、青白く発光する魚、そして今にも動きだしそうな赤い木の実が載っている。料理の見本だと説明されなければ、呪術に使う供物だと思っただろう。
「第一の禁忌は、主人から出された最初の料理に手をつけないことです。これは『お前が毒を盛ったと知っている』という告発に当たります。食欲がなくても、一口は召し上がってください」
エヴァが黒い肉を示す。意識を集中すると、万象通訳が料理に込められた意味を拾い上げた。
火山猪の心臓肉。溶岩香辛料を使用。竜族には滋養、人間には発熱、痙攣、場合によっては死亡。
「一口で死にそうなんだけど、それでも食べろと?」
「ですから、殿下が事前に安全を確認なさいます」
「エヴァ」
リシアの声が一段低くなった。
「余計なことは言わなくていいわ。婚約者を晩餐会の席で死なせれば、私の管理能力まで疑われるもの。これは純粋に政治上の措置よ」
『昨日から料理長を三度も呼びつけて、人間が食べられる量まで香辛料を減らさせたなんて知られたら、過保護だと思われる。絶対に知られたくない』
俺がリシアを見ると、彼女は何も聞こえていないふりをして顔をそらした。しかし椅子の脇へ垂らした銀色の尾は、落ち着きなく床を二度叩いている。
「料理長には悪いことをしたな」
「なぜ、そこで料理長の話になるの?」
「なんとなくだ。三度くらい呼び出された顔をしている」
「料理長の顔など、あなたは見たことがないでしょう」
『どうして分かったのよ。まさか、また私の魂語が漏れたの? でも聞こえたと言われたら恥ずかしいし、聞こえていないと言われたら、それはそれで少し寂しい』
面倒くさい。実に面倒くさいのだが、本人が平然とした顔を保とうと努力しているだけに、笑うのも気の毒だった。
「ありがとう、リシア。俺が今夜まで生き延びられたら、料理長にも礼を言っておく」
「まだ何もしていないのだから、礼を言うのは早いわ。それに、あなたには覚えてもらうことが山ほどあるのよ」
彼女はごまかすように赤い木の実を銀のナイフで切り分けた。
第二の禁忌は、料理の中心部分を相手へ差し出す際、刃先をどちらへ向けるかだった。自分へ向ければ親愛と服従、相手へ向ければ挑戦を意味する。第三の禁忌は、酒杯を相手より高く掲げること。年長者に対して行えば侮辱となり、皇族に対して行えば王位への野心を宣言したと見なされるらしい。
ほかにも、角を褒めるときは左右を間違えてはならない、尾が触れ合っても勝手に謝ってはならない、骨付き肉を二度裏返すと求婚になるなど、誰が考えたのか問い詰めたくなる作法が次々と出てきた。
「待ってくれ。肉を二度裏返しただけで求婚になるなら、竜族には焼き加減を確かめる自由もないのか?」
「一度目で確かめなさい。何度も触るのは食材に対して失礼よ」
「食材の気持ちまで考えておきながら、婚約相手の気持ちは確認しないのか」
「だからこそ、二度裏返すという明確な意思表示を求婚として扱うのよ。うっかりでは済まされないわ」
「今の説明だと、ますますうっかり求婚する未来しか見えないぞ」
俺がそう言うと、エヴァは口元を手で隠した。笑いをこらえたらしい。一方のリシアは真顔を崩さなかったが、魂から漏れた声はひどく正直だった。
『遥人がほかの女の皿で二度裏返したら、その皿ごと窓から捨てる。肉は悪くないから、肉だけは拾う』
契約では恋愛感情を理由に相手の行動を制限しないと定めたはずだが、皿については対象外なのだろうか。
昼を過ぎるころには、俺の頭は竜族の作法で一杯になっていた。そこへ皇女宮が用意した礼装を抱えた侍女たちが現れ、休む間もなく着替えさせられた。
黒を基調とした上着には銀糸で竜の翼が縫い取られ、襟元にはリシアの瞳と同じ青紫色の宝石が飾られている。鏡の中に立っている男は、雪原へ捨てられ、凍死しかけていた役立たずの通訳とは別人に見えた。
「馬子にも衣装という言葉は、異世界にも通じるかな」
「少なくとも、馬よりは見られる姿になったわ」
着替えを終えたリシアが部屋へ入ってきた。彼女も青銀の礼装をまとっていたが、胸元や腰回りを必要以上に飾らず、細身の体に沿う端正な仕立てが、かえって彼女の気高さを際立たせている。
リシアは俺の前まで来ると、襟の宝石へ手を伸ばした。しかし、指先が首筋へ触れる寸前で止まり、契約の条項を思い出したように眉を寄せる。
「襟が曲がっているから直したいのだけれど、触れてもいいかしら」
「そんなことまで毎回確認しなくても、身支度を整える程度なら構わないよ」
「曖昧な許可は後で争いの種になるわ。今後は、衣服を整えるための接触なら事前の確認を省いてよいと追記しましょう」
「俺たちは婚約してから、甘い言葉より契約の追記ばかり増えているな」
「三か月後に円満に解消するためには必要なことよ」
『似合っている。悔しいくらい似合っているし、この色だと私と揃いの衣装だと誰が見ても分かる。嬉しいなんて認めたくないけれど、ほかの女に見せるのは少し嫌だ』
襟を直すリシアの指は器用だったが、尾だけは俺の足首の近くを行ったり来たりしていた。うっかり踏めば、それだけで新たな外交問題になりそうなので、俺は足を動かさずに耐えることにした。
「リシアも、その服がよく似合っている」
「今は私の話をしていないでしょう」
「似合っていると思ったから言っただけだ。これも契約違反になるのか?」
「ならないけれど、急に言うのはやめなさい。返答に困るわ」
彼女は俺の襟を必要以上に念入りに整えながら、小さく息を吐いた。
「……あなたも、それなりに見られる姿よ。少なくとも、私の隣に立たせても恥にはならないわ」
『格好いいと言えばいいだけなのに、どうして私はこんな言い方しかできないのよ』
その不器用さを笑えば、彼女はさらに意地を張るだろう。俺は「それは光栄だ」とだけ答え、差し出された腕を取った。
帝城の大晩餐室には、長い卓が三列も並び、百人近い竜族の貴族が俺たちを待ち受けていた。
人間の姿を取っている者が多いものの、頭には大小さまざまな角があり、背中に翼を畳んだ者や、鱗に覆われた腕を卓上へ載せている者もいる。俺たちが入室すると、彼らの視線が一斉に集まった。
好奇心、軽蔑、疑念、敵意。万象通訳は言葉にならない感情まで意味として拾い上げるため、ただ見られているだけでも、耳元で大勢に囁かれているような息苦しさがあった。
最上席に座る女帝ガルディアは、そんな俺の緊張を楽しんでいるらしい。金色の瞳を細め、俺とリシアの礼装を見比べた。
「よく来たな、我が娘と、その婚約者よ。昨夜は皇女宮もずいぶん機嫌がよかったと聞いている。寝室まで自ら整えたそうではないか」
「母上。その件については、皇女宮が事実を不正確に報告しています。私たちは契約どおり、別々の寝台で休みました」
「同じ部屋で?」
「内部を壁で隔てました」
「同じ入口を使って?」
「構造上、やむを得なかったのです」
ガルディアは声を上げて笑った。周囲の貴族たちまで意味ありげにざわめき、リシアの尾が礼装の裾を内側から強く叩く。
『絶対に面白がっている。母上は私が困ると、いつも子供のころと同じ顔で笑うのよ。遥人まで変な想像をされたらどうするの』
俺としては、百人を前に寝室事情を説明させられている時点で、すでに十分困っていた。
「陛下、せめて食事が始まる前から胃を痛めさせないでいただけると助かります。今夜は料理だけでも命懸けだと聞いておりますので」
「なるほど、口はよく回るようだ。ならば、その舌が竜の食卓でも役に立つか試してみるとしよう」
女帝が杯を上げると、晩餐会が始まった。
最初に運ばれてきたのは、昼間に見た黒い心臓肉だった。実物は見本より大きく、表面には赤い香辛料が火の粉のように輝いている。皿そのものが熱を帯びており、鼻から息を吸っただけで喉の奥が焼けた。
俺がナイフを取るより先に、隣のリシアが自分の皿から一切れを口へ運んだ。続いて俺の皿へ手を伸ばし、端の小さな一切れを切り取って食べる。
「リシア、それは俺の料理じゃないのか」
「婚約者同士が互いの皿を確かめるのは、竜族の古い作法よ。あなたが手をつける前に、温度と魔力の濃度を確認しただけ」
彼女の指先から淡い銀光が流れ、肉を覆っていた過剰な火の魔力が薄れていった。毒見どころか、人間でも食べられるように中和してくれている。
「この皿だけじゃないだろう。昼間の見本にも、一口ずつ減っていた跡があった。俺に出される料理を、全部先に食べて確かめたんじゃないのか?」
「厨房で盛りつけを確認しただけよ。皇族として当然の仕事だわ」
『青雷魚は舌が痺れたし、氷蜜酒は頭が痛くなった。あの料理長、人間向けの加減が分からないなら最初からそう言えばいいのに。でも、遥人が食べて倒れるよりはずっとましだった』
腹の底がわずかに温かくなる。それが料理の熱なのか、彼女の不器用な気遣いのせいなのか、自分でも判別できなかった。
「俺は今まで、誰かに食事を心配されたことがあまりないんだ。元の世界では一人暮らしだったし、勇者一行にいたころも、食べられるものが残っていれば十分だった。だから、うまい礼の言い方が分からない。政治上の措置でも、皇族の義務でも、俺が嬉しかったことだけは伝えておきたい。ありがとう、リシア」
彼女は正面を向いたまま、しばらく答えなかった。
「大げさなのよ。料理を一口食べたくらいで、そんな顔をしないでちょうだい」
「どんな顔をしている?」
「捨てられた犬が、初めて餌をもらったような顔よ。見ているこちらが困るわ」
「ひどい言い方だな」
「ひどくても事実よ。それと、礼を言うなら今後は勝手に危険なものを口へ入れないと約束なさい。あなたは万象通訳で危険を理解できても、理解したうえで無茶をする癖があるもの」
『本当は、ありがとうと言われて嬉しい。でも、今ここで笑ったら、みんなに遥人が特別だと知られてしまう』
笑顔こそ見せなかったものの、彼女の尾は卓の下で俺の足首へそっと巻きついていた。本人は気づいていないらしく、平然と水を飲んでいる。
俺は指摘しないことにした。契約に「無意識に尾を巻きつけた場合」の条項はまだない。
二皿目が運ばれてきたころ、向かい側に座っていた赤い角の貴族が立ち上がった。帝城へ初めて連れてこられた日、俺を人間というだけで処刑すべきだと主張した男だ。
「異界より来たる客人に、我が領地の名物を味わっていただきたい。火竜侯爵家が誇る炎棘牛の背肉です。どうぞ、遠慮なく召し上がれ」
男は自ら切り分けた肉を、刃先を俺へ向けたまま差し出してきた。
教わったばかりの作法では、刃先を相手へ向けて中心部分を渡す行為は挑戦を意味する。受け取れば決闘への同意となり、拒めば臆病者として婚約者の資格を疑われる。
周囲のざわめきが止まった。リシアの指が杯から離れ、立ち上がりかける。
「火竜侯、これは晩餐会よ。決闘の場ではないわ」
「滅相もございません、殿下。私はただ、人間の客人へ最上の部位を差し上げようとしているだけです。もっとも、竜の厚意を理解できないのであれば、無理にとは申しませんが」
言葉は丁寧でも、感情の意味は明らかだった。受け取って死ぬか、逃げて恥をかくか、好きなほうを選べと言っている。
リシアの尾が俺の足首から離れた。
『私が受け取れば遥人を守れる。でも、それでは遥人が私の庇護なしには何もできないと認めることになる。こんなくだらない罠に付き合わせたくないのに、私が婚約を申し込んだから、この人はここに座っているのよ』
俺は彼女の手首へ軽く触れた。勝手な接触を嫌うかと思ったが、リシアは振り払わず、こちらを見た。
「大丈夫だ。通訳の仕事は、相手の言葉をそのまま受け取ることじゃない。何を伝えようとしているのか理解して、誤解が起きない形で返すことだからな」
俺は火竜侯の差し出した皿へ意識を集中させた。肉だけでなく、銀のナイフに刻まれた古い竜語が、細い声となって頭の中へ流れ込んでくる。
炎を分かつ者は敵にあらず。同じ獲物を食らう者は、刃を己へ向けて信を示すべし。
現在では忘れられた、古い食卓の祈りだった。
「火竜侯爵閣下のお心遣い、ありがたく頂戴いたします。ただし、あなたの家が受け継ぐ古式に従うなら、刃先の向きが逆ではありませんか?」
俺は席を立つと、差し出されたナイフの柄へ手を添えた。奪い取るのではなく、刃を火竜侯自身へ向け直す。
「『炎を分かつ者は敵にあらず。同じ獲物を食らう者は、刃を己へ向けて信を示すべし』。このナイフには、そう刻まれています。閣下が私を客人として歓迎してくださるなら、古式どおり、まずご自身へ刃を向けていただきたい。反対に、私を敵として扱うのであれば、陛下がお招きになった晩餐の席で争いを始める理由を、皆様の前で説明していただきましょう」
火竜侯の顔から余裕が消えた。
拒めば自家の伝統を知らないと認めることになり、受け入れれば挑戦を撤回することになる。しばらく俺を睨んだ末、男は刃先を自分へ向け、肉を差し出し直した。
「……古式に通じておられるとは知らず、失礼した。改めて、客人として歓迎しよう」
「ありがとうございます。ただ、俺は人間なので、半分ほどにしていただけると助かります。歓迎だけで胃に穴が開きそうですから」
張りつめていた空気が緩み、卓のあちこちから笑いが漏れた。ガルディアは愉快そうに杯を傾け、火竜侯も不本意ながら肉を小さく切り直した。
席へ戻ると、リシアは俺を横目で見た。
「大丈夫だと言ったわりに、ずいぶん危うい真似をしたわね。あの古文を読み違えていたら、火竜侯はその場であなたの腕を焼いていたかもしれないのよ」
「そのときは助けてくれただろう?」
「当然でしょう。あなたを守るのは契約に含まれているもの」
『頼られた。嬉しい。でも、この人は私が助けると信じて、あんな顔で笑ったの? それはずるいでしょう』
リシアは不機嫌そうに皿の肉を切り分けた。中心の柔らかな部分を取り、自分へ刃先を向けたまま俺の皿へ載せる。
「これはどういう意味だ?」
「親愛と服従ではなく、婚約者としての連帯を示しただけよ。妙な勘違いをしないで」
「まだ何も言っていないだろう」
「あなたは余計なことを言う前に顔へ出るのよ」
本当は彼女のほうが、尾にも魂語にも出ているのだが、それを口にすれば今度こそ足を踏まれそうだった。
俺も返礼として料理を選ぶ。青白い鱗に覆われた雷魚のほかに、香草で蒸された白身魚があった。意識を向けると、穏やかな水の魔力に混じって、淡い甘味という意味が伝わってくる。
その瞬間、隣からリシアの魂語が聞こえた。
『白露魚……子供のころから好きだけれど、皇族が甘い魚を好むのは幼いと言われるのよね。でも、遥人の前でまで格好をつける必要はない気もするし、やっぱり知られるのは恥ずかしいし……』
俺は白身魚を切り分け、刃先を自分へ向けて彼女の皿へ載せた。
「今夜はいろいろ助けてもらったから、その礼だ。食べたくなければ残してくれて構わない」
「なぜ、これを選んだの?」
「人間にも安全そうだったからだよ。それに、甘い味の魚なら、辛い料理の合間にちょうどいいだろう」
「そう。偶然なら、別にいいけれど」
リシアは一口だけ食べ、それから周囲に気づかれないよう慎重に二口目を口へ運んだ。表情はほとんど変わらなかったが、尾の先が椅子の脚をゆっくり撫でている。
『おいしい。どうして私が好きだと分かったのかしら。魂語を聞かれたなら恥ずかしいけれど、覚えていてくれたのなら、少し嬉しい』
嬉しいと言いながら疑い、知られたいのに隠そうとする。人の心は言葉が通じれば簡単になるわけではなく、むしろ意味が分かるほど面倒になるらしい。
けれど、その面倒さを嫌いではないと思い始めている自分がいた。
「遥人」
リシアが声を潜める。
「なぜ笑っているの?」
「君が気に入ってくれたみたいだから、安心しただけだ」
「私は笑っていないわ」
「笑っていなくても、なんとなく分かるんだよ」
「それを得意げに言うのはやめなさい。あなたに何もかも見透かされているようで、落ち着かないもの」
その言葉だけには、冗談では済ませられない痛みが混じっていた。
彼女にとって魂語は、誰にも触れられなかった最後の隠れ場所だった。その声を俺だけが聞けるという事実は、親しさの証しである前に、ひどく一方的な侵入でもある。
「悪かった。聞こえるからといって、全部に答えていいわけじゃないよな」
「……聞かないでほしいとは言っていないわ」
「でも、聞かれたくないこともあるだろう」
「あるわ。たくさんあるし、できれば半分くらいは聞き流してほしい。けれど、私が口でうまく言えないときまで、何も聞こえなかったふりをされるのも困るのよ」
「ずいぶん難しい注文だな」
「婚約者なのだから、それくらい努力しなさい」
「三か月限定の偽装婚約者に求める仕事としては重すぎないか?」
「期間が短いからこそ、早く覚える必要があるのよ」
『三か月が終わっても覚えていてほしいなんて、今は絶対に言えない』
俺が答えを探していると、大晩餐室の扉が乱暴に開いた。
甲冑姿のヴァルガンが入ってくる。儀礼を重んじる近衛隊長が、女帝の晩餐を中断させるほどの事態らしい。彼は最上席の前まで進み、片膝をついた。
「陛下、火急のご報告がございます。人間王国の使節団が、たった今、帝都の外門へ到着しました」
卓を満たしていた和やかな空気が、一瞬で消えた。
ガルディアは杯を置き、鋭い目でヴァルガンを見下ろす。
「事前の通告は受けておらぬ。率いているのは誰だ」
「勇者、神崎怜央です。王国の聖女セナおよび騎士団を伴っております」
俺の手から、ナイフが滑りかけた。
怜央。俺の功績を奪い、真実を隠すために、俺が雪原へ追放されるのを黙って見ていた男。その名を聞いただけで、凍りついた風が肺の奥へ戻ってきたような感覚に襲われる。
ヴァルガンはさらに声を低くした。
「使節団は、如月遥人殿が王国の機密を盗んで逃亡した犯罪者であると主張しております。身柄を直ちに引き渡さなければ、竜帝国が王国への敵対意思を示したものと判断する、と」
竜族の貴族たちの視線が、再び俺へ集まった。先ほどまでの好奇心とは違う。婚約者として迎えた人間が戦争の火種になるかもしれないという、冷たく値踏みする目だった。
隣で椅子が鳴る。
リシアが立ち上がっていた。銀髪の間から伸びる角には青白い光が走り、その瞳からは、先ほどまでの照れも戸惑いも消えている。
「身柄を引き渡せですって?」
声は静かだった。しかし、大晩餐室の温度が下がったように感じるほど、はっきりとした怒りが込められていた。
「自分たちで雪原へ捨て、死んでも構わないと切り捨てたくせに、今さら犯罪者と呼んで連れ戻そうというの。人間王国は、竜族が拾ったものなら、後から好きに奪い返せるとでも思っているのかしら」
『怖い。遥人が怜央たちを見たら、やっぱり人間の国へ帰りたいと思うかもしれない。私は契約を理由に引き止められるけれど、それではあの勇者と同じになる。本人が帰りたいと言ったら、私は……』
怒りの底に隠れた声は、驚くほど弱かった。
俺は立ち上がり、卓の下で彼女の手を取った。リシアの指先は冷たく、ほんのわずかに震えている。
「俺は戻らない」
彼女が息を止め、俺を見た。
「まだ、何も聞いていないでしょう」
「聞かなくても、それだけは答えられる。あの国は俺を捨てた。ここでは少なくとも、命懸けの料理を食べさせられる前に、君が毒見をしてくれるからな」
「今、その冗談を言えるあなたの神経は理解できないわ」
そう言いながら、リシアは俺の手を握り返した。
女帝ガルディアがゆっくりと立ち上がる。その口元には笑みがあったが、それは娘をからかっていたときのものではない。敵を前にした竜の笑みだった。
「よかろう。人間の勇者とやらを謁見の間へ通せ。自ら捨てた男を、我が娘の婚約者となった後で返せと言うのなら、その厚顔がどれほどのものか、この目で見てやろう」
晩餐会は、最後の料理が運ばれる前に終わった。
どうやら今夜、俺の命を脅かすものは、竜族の料理だけでは済まないらしい。
第10話 勇者が俺を連れ戻しに来た晩餐会を中断して謁見の間へ向かう途中、俺は何度も右手を握り直していた。寒いわけではない。それでも指先が、雪原へ捨てられたあの夜と同じように震えている。神崎怜央と再会すると聞いた瞬間から、記憶の中に埋めたはずの光景が、嫌になるほど鮮明に蘇っていた。古代神殿の壁画を解読し、人間王国が休戦協定を破って竜帝国へ侵攻したという事実を突き止めた日のこと。俺がその内容を怜央へ報告すると、彼はしばらく黙り込み、やがて困ったように笑った。「遥人、お前の能力が便利なのは分かってる。だけど、世の中には正しいからって公表しちゃいけないこともあるんだよ」あのときの俺は、まだ怜央を仲間だと思っていた。だからこそ、真実を国王へ報告すべきだと食い下がり、王国の戦争に正当性がないことを説明した。翌朝、古代神殿の解読は怜央の功績になり、壁画の内容は「竜族による人間侵略の証拠」へと書き換えられていた。そして俺は、虚偽の報告で勇者一行を混乱させた反逆者として拘束され、その日のうちに国境の雪原へ捨てられた。怜央は最後まで俺の目を見なかった。けれど、その場から立ち去ろうともしなかった。俺が何度名前を呼んでも、少し離れたところで腕を組み、すべてが終わるまで黙って見ていた。殴られたことより、荷物を奪われたことより、あの沈黙のほうが今も胸の奥に残っている。「遥人」隣を歩くリシアが、前を向いたまま俺の名を呼んだ。今夜の彼女は晩餐用の礼装姿で、俺たちが揃いの装いだと誰の目にも分かる。先ほどまで俺の料理を気にしていた女性と同一人物とは思えないほど、その横顔は冷たく整っていた。「会いたくないのなら、私が一人で追い返すわ。母上も、あなたに出席を強制するおつもりはないはずよ」「会わずに済ませたら、たぶん俺は後で後悔する。あのとき言えなかったことを、今度こそ自分の口で言わなくちゃならない」「そう。なら止めないけれど、無理に強がる必要はないわ。怖いなら怖いと言いなさい。怒っているなら、怒っていると言ってもいい。竜族の宮廷では、人間の王国ほど
第9話 竜族の食卓は命懸け「最初に言っておくけれど、今夜の晩餐会では三度までなら失敗しても、私がどうにか取り繕えるわ」皇女宮の食堂で向かい合うなり、リシアは慰めるつもりらしい言葉を口にした。朝日を受けて輝く銀髪も、背筋の伸びた姿勢も相変わらず美しかったが、その説明だけはまったく安心材料になっていない。「四度目はどうなるんだ」「失敗の内容にもよるけれど、決闘になるか、外交問題になるか、その場で毒を飲むことになるわね」「食事へ招待されたはずなのに、どうして命の心配をしなくちゃならないんだ。竜族は毎晩、晩飯を食べるたびに戦争を始めているのか?」「あなたたち人間の貴族だって、食卓では笑顔を浮かべながら政敵の失言を待っているでしょう。竜族は、それを少しだけ分かりやすくしただけよ」少しだけ、という言葉の意味について追及したかったが、リシアの隣に立つ侍女長エヴァが、同情の余地を一切感じさせない顔で三枚の皿を並べたため、俺は口を閉じた。皿の上にはそれぞれ、焼けた石のような黒い肉、青白く発光する魚、そして今にも動きだしそうな赤い木の実が載っている。料理の見本だと説明されなければ、呪術に使う供物だと思っただろう。「第一の禁忌は、主人から出された最初の料理に手をつけないことです。これは『お前が毒を盛ったと知っている』という告発に当たります。食欲がなくても、一口は召し上がってください」エヴァが黒い肉を示す。意識を集中すると、万象通訳が料理に込められた意味を拾い上げた。火山猪の心臓肉。溶岩香辛料を使用。竜族には滋養、人間には発熱、痙攣、場合によっては死亡。「一口で死にそうなんだけど、それでも食べろと?」「ですから、殿下が事前に安全を確認なさいます」「エヴァ」リシアの声が一段低くなった。「余計なことは言わなくていいわ。婚約者を晩餐会の席で死なせれば、私の管理能力まで疑われるもの。これは純粋に政治上の措置よ」『昨日から料理長を三度も呼びつけて、人間が食べられる量まで香辛料を減らさせたなんて知られたら、過保護だと思われる。絶
第8話 皇女宮は俺を夫と認識した『魂約の成立を確認した。新たなる男主人の帰還を歓迎する』 皇女宮から聞こえてきた声は、百年ぶりに待ち人が帰ってきたかのように弾んでいた。 俺には古代宮殿が発する言葉として理解できたが、リシアや法務官シルヴィアにとっては、宮殿全体が突然揺れ、壁や床の魔法文字が一斉に輝き始めたようにしか見えなかったらしい。 応接室の扉がひとりでに開き、廊下に飾られていた花瓶や絵画が次々と移動していく。古びていた銀色の燭台には青白い炎がともり、壁に積もっていた細かな埃まで風にさらわれるように消えた。 長く眠っていた皇女宮そのものが、俺とリシアの魂約をきっかけに目覚めたのだ。「遥人、何が起きている。宮殿は何と言っているのだ」「新しい男主人の帰還を歓迎すると言っている」「男主人だと? おまえは三か月間の婚約者であって、この宮の主人ではない」「俺に言われても困る。そう判断したのは宮殿だ」「ならば、間違っていると伝えろ。おまえは客人として置くのであって、私と同じ権限を与えるつもりはない」「聞こえているか分からないけれど、一応言ってみる」 俺は壁に浮かんでいる魔法文字へ意識を向けた。「皇女宮、俺はこの宮の主人ではない。リシアと三か月限定の婚約契約を結んだだけだ。俺の身分は客分で、宮殿に関する最終的な決定権はリシアにある」 壁の文字が、俺の言葉を考えるようにゆっくりと明滅した。『魂約によって結ばれ、真銀の環を授かった者は、皇女の正式な伴侶である。伴侶は巣を守る男主人として、女主人と同等の権利を持つ』「婚約期間は三か月だ。その後は二人の意思によって解消できる」『三か月後の契約更新については、期限到来時に確認する。現時点では正式な伴侶であり、男主人である』 ずいぶん融通が利かない。「現時点では、俺のことを男主
第7話 恋愛禁止の婚約契約「これ、本当に三か月で解消できる契約なのか」 俺が問いかけると、リシアの肩が明らかに揺れた。 銀色の巻物へ刻まれた古代竜語は、俺の耳へ「二つの魂を一つの巣へ結び、死が二人を分けるときまで続く」と囁いている。どのように都合よく解釈しても、三か月限定の偽装婚約を示す文章には思えなかった。 リシアは俺と目を合わせないまま、机の上へ置いた巻物を箱へ戻そうとした。「今日はもう遅い。詳しい話は、明日、法務官を交えて行えばよい。おまえも疲れていると言っていたではないか」「そうだな。疲れているからこそ、これを三か月の契約だと思って署名していたかもしれない。説明は今聞きたい」「署名させる前には、きちんと説明するつもりだった」「それなら今、説明できるだろう。この契約は、いつまで続くんだ」 リシアは箱へ伸ばしていた手を止めた。 魂語からは、『署名する前には話すつもりだったというのは本当だ。しかし、具体的にいつ話すつもりだったのかと問われれば、答えられない』という後ろめたさが伝わってくる。 黙って契約させるつもりだったわけではないのだろう。ただ、正直に話せば俺が婚約を断るかもしれないと恐れ、説明する時期を先延ばしにしていた。 悪意がないからといって、許されることではなかった。「リシア、俺は王国で、読めない契約書へ何度も署名させられた。勇者一行の一員として登録されたときも、報酬の分配や功績の扱いについて詳しく説明されなかった。共通語へ翻訳された書類は見せられたけれど、原文には、異世界人の功績は王国と勇者へ帰属すると書かれていたんだ」「そのような条項があったのか」「あった。召喚されたばかりの俺は、この世界の文字をほとんど読めなかったし、疑う理由もなかった。後から原文を読めるようになって気づいたけれど、その頃には何年も経っていた。だから、内容を理解できない書類へ署名するのは、もう二度と嫌なんだ」
第6話 皇女からの偽装婚約「遥人。おまえには、私の婚約者になってもらう」 リシアが何を言ったのか、言葉の意味は正確に理解できた。 俺の技能は「万象通訳」であり、聞き慣れない竜族の言葉や始原語であっても、そこに伝えようとする意味がある限り読み違えることはない。それでも、このときばかりは、自分の能力が壊れているのではないかと疑いたくなった。「すまない。転移門を直すために寝ていなかったせいか、今の言葉をうまく理解できなかった。婚約者というのは、竜帝国では別の意味を持つ役職か何かなのか」「おまえが想像しているものと同じだ。将来の結婚を約束した相手、つまり夫となる予定の男を指す」「それなら、聞き間違いじゃなかったらしいな」「最初から、そう言っている」「確認したいんだが、あなたと俺が出会ったのは、昨日だったよな」「正確には、一昨日の夕刻だ。おまえが長く眠っていたので、その分だけ時間が過ぎている」「日数を一日増やしたところで、知り合ったばかりであることは変わらない。しかも俺は人間で、あなたは人間嫌いの竜皇女だ。助けた直後には剣を喉へ向けられ、昨日は所有物と宣言された。そこからどういう順番で考えれば、婚約という結論にたどり着くんだ」「私も好きで、この結論を出したわけではない!」 リシアは声を荒らげた後、廊下に控えている侍従たちへ聞こえたかもしれないと気づき、咳払いでごまかした。 表情だけは冷静さを取り戻したものの、魂から漏れてくる声は混乱したままだった。『もっと落ち着いて説明するつもりだったのに、なぜ最初から言い争いになっているのだ。そもそも、私も好きで考えたわけではないという言い方では、この男との婚約が嫌でたまらないように聞こえるではないか。いや、これは偽装なのだから、嫌でも問題はないはずだ。それなのに、どうして遥人が傷ついた顔をしていないか気になるのだ』 彼女が気にしているほど、俺は傷ついていない。そもそも、
第5話 処刑の代わりに出された条件 竜帝国で迎えた最初の夜、俺は客室と呼ぶには扉の錠が頑丈すぎる部屋へ入れられた。 窓には鉄格子こそないものの、青白く光る細い文字が何重にも刻まれ、触れようとすると「逃亡者を焼却する」という物騒な意味が伝わってくる。扉の外には二人の近衛兵が立ち、部屋の四隅には監視用と思われる水晶まで置かれていた。 家具は立派で、寝台も国境砦で使っていたものより柔らかい。それでも、外へ出る自由がなければ、豪華な牢と呼ぶのが正しいだろう。「少なくとも、雪原で凍死するよりはいいか」 誰に聞かせるでもなく呟き、俺は机の上へ広げられた転移門の記録に目を落とした。 女帝ガルディアが与えた猶予は、明日の正午までである。それまでに古代転移門が動かない原因を突き止め、修復方法を示せなければ、俺は人間王国の間者として処刑される。 しかも、リシアが俺を皇城へ連れ込んだ責任まで問われるらしい。 俺一人の命ならば、どこかで諦めることもできたのかもしれない。しかし、助けた相手まで巻き添えにするとなれば、簡単に失敗するわけにはいかなかった。 記録には、百年以上にわたって転移門を調査した竜族の術者たちの報告が残されている。魔力の供給は正常で、門の石材にも大きな損傷はない。それにもかかわらず、起動させようとすると魔法が逆流し、術者だけを門の外へ弾き飛ばすという。 文字そのものを見なければ、俺にも原因は分からない。 報告書を何度読み返しても同じ結論へ戻り、そろそろ目を休めようとしたとき、扉の向こうから言い争う声が聞こえた。「殿下、さすがに夜も更けております。人間の男が一人でいる部屋へお入りになるなど、いくら監視のためとはいえ、外聞がよろしくありません」「私の所有物を、私が確認して何が悪い。そもそも、私が近くにいなければ、この者が妙な行動を取ったときに止められぬだろう」「でしたら、我々も室内へ同行いたします」「おまえた







